昭和44年9月15日 朝の御理解
御理解第29節
「桜の花の信心より梅の花の信心をせよ、桜の花は早う散る、梅の花は苦労しておるから長う散らぬ」
これは修行させて頂いて修行の中から頂けるおかげ、修行の中から願いが成就して行く、そう言う信心が良いと言う事で御座いましょうネ、苦労しておるから長う散らぬ、苦労しておるから、やはり寿命が長い、信心も何と言うんでしょうかネ、非常にその極端に有難くなる人がありますよネ、この人は本当にその有難いとじゃろうかと、思う位に急にその信心が有難いものになって来る人がある。そんなにこの人は御理解を頂いて有難いとか、解ってから有難いとか、その信心の修行もせずに、苦労もせずに、有難がる人がある、本当に有難いらしいです。涙を浮かべて有難いと言う、そういう人に限ってですネ、早う散る。いわゆる、例えば信心がすーっとしてしまう、だから熱し易い者は冷め易いと言った様な訳なんですネ、あげん、有難か、有難か、と言いよってから、本当にすーっと有難く無くなるなんて、可笑しいと思う位な人が在ります。それぞれの性格と言うんですかネ、そこで人間の性格にはやはりその桜の花的な人もありゃァ、梅の花的な人もあります。そこで、その、なら、桜の花的なその人が何時もその修行に心がけさして頂いておれば、おかげが頂ける、何時も、まァ桜の花の様なおかげをお受けるだけでなくて、寿命が長く頂き続ける事が出来る。まァ私共の信心と言うのは、私の信心はどちらかと言うと桜の花の信心。熱し易くて冷め易い。そこん処をまァ様々な難儀に出会う事によって、やはりその苦労させて貰って修行させて貰って、そして、その修行が有難いものだと解らして頂く様になった処からまァ、もゥ恐らくは早う散る様な事もあるまいと思われるだけに、おかげを受けて来て、御かげは何とはなしに桜の花の様な華やかな御かげを受けておる。ですから、その、やはり合楽に御縁を頂いておる人達はどちらかと言うと、やはり類は類をもって集まると言う例が在ります様に、何とはなしに華やかな人が多い、ですから私は、その、どうしてもやはり桜の花的な性格を持って頂いている人はとりわけ、だから人よりも一倍、一段修行さして貰わなければいけないと言う事になる。桜の花的な人が修行せずに只、有難い、有難いと言っておるのはもゥ、こんなに危ない事はないネ、いわゆる桜の花の様なおかげを受けて行くと言う事の信心、その内容にいわゆる人一倍の私は信心修行、そう言う意味でやはり、考えて見ますと合楽の人達はそう言う意味で修行がでけておられる様に思うですネ、だから、でけておると言うものは在りませんけれども、そう言う修行精神はなかなか皆な旺盛に育っていきよる様に思う、それがどう言う事のおかげかと言うと、やはり難儀と言うか、苦労と言うかネ、そう言う難儀のおかげで修行が、一人芝居の修行が出ける様にだんだんなって来たネ、苦労の有難さと、いわば修行の有難さがそう言う時期に本当に解る、そこん処までが、だから桜の花の様な性格、合楽的な性格を受けておる人はそこまでが、やはり信心辛抱であるネ、修行も有難いものになって来るネ、修行の味わいと言うものが忘れられないものになって来る。ここん処をやはり、頂き貫かなければ、そこには私は桜の花の様なおかげ、それがしかも、梅の花の様な寿命を持って長うおかげを受けて行けれると言う様なおかげになって来ると、こう思うんですネ、そこでその修行の真っ最中である、みなさんの場合には修行が有難いものになって来ると、どう言う事になって来なければならないかと言うと、信心する者は木の切り株に腰を下ろしても、休んでも、立つ時には礼を言う心持になれヨ、と言う、全ての事に感謝の心が、全ての事にお礼言う心が強うなって来る。私は、あのゥ修行の賜物と言うなら、これだと思うんですネ、はァ、あんな御かげを頂きなさったのはやっぱり、あゝ言う苦労をしなさったから、あゝ言う修行をしなさったから、あゝ言う御かげ、その御かげが有難い様ですけれども、実はその御かげは散り易い。そう言う御かげは、けれどもあゝ言う苦労をしなさった、あゝ言う修行をさせて頂いておった、その間にその内にです、全ての事に「木の切り株に腰を下しても、立つ時には礼を言う様な心持がだんだん身について来た」人が喜べない処を喜ばして頂ける様におかげを頂けた。ネ、例えば御理解第29節と言うのは「福」と言う字ですから「福」と言う事にもなる。これは私よく話すんですけど、北京に居ります時に喜田ヨウコウと言って、喜田、喜びの田と言う風に書いちゃるんです、食料品の卸屋が在った、そこが電話を取った時に、その、2929と言う電話番号だった、丁度私が行った時にそれを、これを、こげな電話に当たってからちゅうち、大将が、それから、そのこげな電話をち言いよりますもん、それは成るほど二九二九ですもん、憎憎しいじゃ、にくにくと言う事、私ちょっと、それから帰りよると、これは、にくにくばってんから、ほゥ読み方が、ふくふくとも言える、これはあんた喜田さん、とても良かじゃん、ふくふくしいじゃないの、はァあんたの言う事はほんなことじゃち言うごたる、それで北京の喜田ヨウコウちゅうのは、にくにくと言うその番号でしたが、私がそれを言って大変喜んで、ですネ、それにカナ付けしてから、ふくふくちゅうてから、その電話番号を刷ってから書いてました事でございましたがネ、だからここん処がですネ、二九二九と、その読めば、憎憎しいですけれども、ふくふくと読めば、みんなが求めて止まない、福々しいと言う事になるんです、さァ、ところがネ、そのむつかしいんです、成る程そのにくにくと言うは思わずに、ふくふくと思やァ、ええと、こう思うとりますけれどもですネ、人間の心の調子と言うものがですネ、福ゝとは読めない、どうしても、にくにく、にしか読めないと言う様に引っかかって来る時がありますネ、もの事を有難い方へ、有難い方へと頂いて行かなきゃならんと解って居りながら、有難い方へ、有難い方へではなくて淋しい方へ、淋しい方へネ、取り越し苦労の方へ取り越し苦労の方へ心が向かって行って仕方がない、そこに人間のどうにも出来ない一つの業と言う様なものを感じますネ、そこが私は信心だと、こう思うのです、ネ、信心をさせて頂き、信心をさせて頂いただけでは、その教えられる事は、その良い方へ、良い方へ、有難い方へ、有難い方へ頂けと教えられますけど、信心をしておるだけでは、そうは頂けない。やはりそこには信心修行と言うかネ、修行が真剣に出けておる時なら、どう言う事になると言うかネ、今日は私はその事を思わせて頂きよったら、あの蕎麦の花がいっぱい真っ白に咲いている所を頂いた、蕎麦の花って白いですネ、丁度韮の花の様な花です。ネ、信心さして頂く者は、又、修行が本気で出けておる時にはですネ、御かげは絶対なものと言う風に感じられる様になって来るです、これは不思議です。信心修行が段々本気でなされて来る様になるとですネ、もう、御かげは絶対なもの、御かげは側にあると言う、いわば心がもう、いわば、いつも湧いておるんです。私が御かげ頂かん筈はなか、と言った様な、その確信が出けて来る、これは修行の賜物です。修行しとらなければですネ、まァ修行せんなりに、それこそ牛に引かれて善光寺参り的な信心ではです。何時になったらおかげ頂けるじゃろうか、と言って、寂しい心しか湧いて参りません。信心しとっても、けれども本気で修行させて頂く。昨日は何人も、昨日私が目が見えて居ると言うことだけがに有難いと言う、そこの焦点をおいて、今日一日の信心修行をさして頂こうと言う様な事をしましたでしょ、ところが、なかなかそれだけの事だけども案外忘れられてしまっておる人が多いのに驚きます位ですネ、中にはその事に本気で取組むネ、もう見せて頂くもの、開かせて頂くもの、とりわけ見せて頂くと言う事にです、大変有難い御かげを受けて、夜の御祈念にお礼参拝して来た方もあります様にですネ、その本気でその修行に取組ませて頂いておると、それは全てが有難い事へ有難い事へなってくる。有難いことへ、有難いことへ思われて来る様になる。ネ、ですから私共は御かげは絶対のものだと、心の中に湧いて来る様な、その勇みだったものと言うか、勇み、この生き生きとした勇みの心と言った様なものがですネ、生まれて来ないとするならば、まァだ修行不足だと思わにゃあいかん、ネ、だから、そう言う修行不足の中からですネ、あの受けた御かげは散り易い、本気で私はネ、まァこれは合楽の御縁を頂いておる人達は先ず華やかな御かげの頂けれる、全部そう言う、まァ言うならば性格と言うか、受け物をみんなが持っておる。ネ、受けた暁には、もゥそれこそみんなが羨ましがる程しに華やかな御かげの頂かれるものをみんなが持っておる。その代わりに、散り易い、そこで現在の、例えば合楽ではですネ、受けた時に散ってはならない御かげを受けて、それが早う散る様な事であってはならない、と言う事の為に修行がいる。いよいよ重ねられておると言う気が致しますネ、ですから、やはり御かげが暇がいる、ネ、御かげが暇のいる、その間に私は梅の花は苦労しておると、梅の花の様な苦労を一つ本気でさして頂いときゃならん、だから、その苦労を苦労としてではつまらんから、それを修行をさして貰うて、その修行そのものの、中からですネ、修行の楽しみを一つ身に付けたい、ネ、修行から生まれて来る処の確信、修行から生まれて来る処のです、例えば、二九、二九(ニク、ニク)と言わずに二九、二九をフク、フクと言えれる心を育てて行かなければならない。ネ、そこの処の稽古をまァ一生懸命、合楽の皆さんはさして頂いておられる。ネ、今日はとりわけ、この桜の花の信心と言うのをです、もゥ合楽の信心は桜の花の信心だとして、今日はお話を聞いて頂きました、と言う事は、どう言う事かと言うと、桜の花の様な華やかなおかげを受けられる、言うならば、素養と言うかネ、そう言う信心の素養をみんなが持っておる、身に付けておる、これだけは、だから桜の花の様なおかげを、すぐ頂かせたんでは散り易いからネ、修行の尊さ、修行の有難さを身に付けさせたいと言う神様の働きを私は感ずる、私自身も桜の花の様な信心ですけれども、たまたま、終戦、そして次々と起きて来る難儀に本気で取り組ませて頂く、その時代にです、修行の楽しみと言うものを身に付けて来た様に思う、ネ、そうして例えば、ニクニクと人が読む場合でも、それをフクフクと、もゥ自ずと湧いて来る様な心で福々と受け止められる、いわゆる私がおかげの受けられん筈は絶対になかチ、言い切りよったです、私が一番、難儀な時分に、又みんなも、貴方が御かげ頂かんなら御かげ頂く者はなかと、言う位のその修行をさして貰いよったです、それはもゥ、いよいよ難儀、困迫しておる時だったけれども、それが言えた。もゥ御かげが、そば、そばの花の花盛り様な、いわば御かげを頂いておった。みんなもそれを認めて、はァ貴方が御かげ頂かんなら本なこつ、御かげ頂く者はなかョ、もし私が御かげ頂かんなら教祖様は白ごとばかり言うてござったチ、まァ今から思いますと本当にはっきりした形が出る様なネ、まァあの程度の信心でようも、あんな事が言えたと思うけれども、その時はその時なりに勢い一杯の、やはり信心が修行が出けておったと思うのです。だから今私が申します確信に満ちた、いわば表現が出けておった。又心の中には、もゥいわば、蕎麦の花が一杯であった。御かげは絶対なもの、と確信して進んで行けた。ネ、本当に大体は修行は好かんですョ、ネ、まァ私が良く言う大坪の家の者は大体不精者筋だチ、私が言うんですネ、その不精者筋の私達がです、そう言う難儀に直面してです、ネ、もゥ不精ばっかりは、まァしちゃあ居れない。尻に火がついた様になって来た。そしてその追われる様にして、させて頂いた、その修行が実を結んだ、その修行そのものが有難いと気がつかせて頂く様になった。そこにです私は桜の花の様な信心をと言うか、清浄と言うか、心と言うものをです、それは人間には様々在ります。本当に梅の花の様な性格の人もあります、ネ、けれども、それがネ、こう、何んて言うか、何時までも、いつまでも、御かげが頂けないと言う梅の花の信心して御かげの受けられないと言うのが、これが一番つまらん、ネ、如何に長う散らんでも、これじゃつまらんですョネ、まァ、幸か不幸か合楽の信心、私の信心事態が桜の花の様な信心ですからネ、考えて見るとやっぱり桜の花の様な御かげをですネ、こう振り返って見ると所々で頂いておるです。やっぱり華やかな御かげを、けれども、それが全部散ってしまった。苦労なしに頂いた御かげだからでしょうネ、すぐに有難くなれる性格ですから、その有難いと言う時にはパァッと、まァ御かげを受けておる。桜の花の様な、けれども、その有難いと言うその心がです、もゥパッと冷め易いんですネ、だから有難いが冷めるともゥ、御かげの花は散ってしまっておる、と言う様なまァ、繰り返しをした様に思う。それがたまたま、やはりネ、桜の花の様な信心にです、難儀が続き、苦労が続かして頂いたおかげで、その難儀が続く間に難儀様の御かげでと、難儀に様を付けさせて頂く程しのものが育った。難儀、苦労させて頂いておる間にその苦労の尊さと言う事が解った。身について来た、修行の有難さが身について来た、ネ、もゥ大丈夫です、どんなに桜の花の私が、もゥ御かげを頂く様になりまして、もゥ二十年ネ、もゥ本当に私が椛目に帰りましてから一年目に御大祭と言うて、まだ別に幹部も居らなければ、総代もおらない、ただ、みんな、御かげを受けるから椛目々と言うて集まって来た時代、初めて御大祭を、まァ御大祭とは知りませんでしたよネぇ、お祭りを仕えた時にネ、とてもあの狭い家に入られないから朝と、あ、昼と夜と二回に分けてお祭りを仕えねばならないと言う程しに人が集まった。正に桜の花の様な御かげであった。年々歳々、毎年々桜の花の様な御かげが広がっていった。それで今日に至った。もゥいっぺんだって散る事がない、段々桜の花が増えて行くだけの様な御かげを頂いて来たネ、それはイヨイヨ私の心の中に育っておる処の修行の尊さ、修行の有難さ、修行の楽しみと言うものが身について来た。だから、それが育って行くから私の性格である桜の花の様な御かげはもゥ、言わんでも頼まんでも現れて来た。ネ、その中身として、その修行の有難さと言うものがイヨイヨ身について来た処に神様がもゥ、イヨイヨ、ネ、御かげを渡しても大事ない、御かげを渡しても、もゥ散る事はないと、まァ信用して下さる様に、だんだんなって来た処からです、私は今日の合楽の御かげがあると、こゥ思うのです。合楽に御縁を頂く人、もゥ全て、やはり類は類をもって呼ぶのであり、集まるのである。みなさんの心の中にもです、やはり桜の花のおかげの頂けれる様なもの、その代わり熱し易くて冷め易いものを欠点としては持っておる、だから冷めんで済むおかげを頂くためにです修行のイヨイヨ尊さ、有難さネ、そして御かげの確信の出けれる一生懸命の修行が出けておる時には私が御かげを受けん筈はないと言う確信が生まれて来る、こげんして毎日々参りよるけど何時になったら、御かげが受けられるじゃろうかと言った様な寂しい信心では御かげにならん。もし、それで在るならば、まだ貴方の修行が足らんのだから、もちっと本気で修行さして貰わなければいけないと言う事になるのです。桜の花の様な華やかな御かげを、ネぇ、咲きっぱなしと言うか、頂きっぱなしに頂けて行ける道ネ、子供にも孫にもそれが伝えて行けれる道、桜の花の信心がいけないと言うのじゃない、ただ、冷め易い、散り易いからいけないのである。だから、それが散らんで済む、冷めんで済む、一つの信心の会得と言うものが出けてくる処にです、御かげ、そう言う私があのう修行さして頂く処に、今申しますネ、にくい状況を二九(ニク)と二九、二九(ニクニク)ちネ、と言わずに二九、二九(フクフク)と読めれる心が自ずと出けて来る、木の切り株に腰を下ろしても、立つ時は礼を言う心持ちがいよいよ育って来る、ここでは有難い、と思わにゃならんのだけれども、やっぱり心が淋しゅうて、淋しゅうてたまらん、ネ、そこに人間の業がある、ネ、だから、そこん処の一つ業を、いわゆる「めぐり」を取り払う、頂かして貰うてネ、有難い、もったいない、で過ごして行けれる信心を身に付けたい。今日はもゥ、私がはっきり桜の花の信心の礼讃、桜の花礼讃、と言う訳ですネぇ、私共はそれより他に無い、合楽の人は、そう言うものをお互い持っているんだからネ、ですから、その桜の花がパッと咲いた時にそれが散らんで済む、いや、合楽での神様の働きはです、そこを見抜いておいでられる感じに、せっかく桜の花の様な御かげを渡しても又パッと散ってしまう様な事では神様も氏子も喜ばれない事になるのですからネ、神様はもゥね、桜の花の様な華やかなおかげを下さったが、最後それを育てて行く事は出けても、それを散らす様な事のないだけの信心を今こそ解れ、と言う時ですから他所の人達よりも、やっぱり人は人偏でも私しゃ行人偏と言う様に一つは多い信心を皆さんは段々しておいでておられる、私もそれをいつも思うネ、人はいわば人偏ならば、私しゃ行人偏と、一つ少しは違った信心をさして頂いた。合楽の信奉者の皆さんにもその一つは違った、どこか違ったと言った様な信心を、今神様が求めておいでられる。その求めに応じられた時、それが自分の身に付いた時、間違いなく私、華やかな御かげが待っておるとこう思います。どうぞ!!
甲斐田誉